日本赤軍に関しての記載
日本赤軍は,1971年㋄30日から2001年まで存在した日本の新左翼(極左)系の国際武装組織・ゲリラ組織・テロ組織。
1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子・奥平剛士らがパレスチナでパレスチナ解放人民戦線への国際義勇兵(アラブ赤軍)
として結成し,1974年に公式に「日本赤軍」と名乗り,1980年代にかけて多数の武装闘争事件(日本赤軍事件)を起こしたが,
2001年に重信自身が解散を表明した。2022年㋄時点で7人が国際指名手配中。
赤軍派は世界革命の一環としての日本革命を主張し,国際根拠地論により中東など海外に拠点を置いた。
日本公安調査庁は「テロ組織」と呼んでいる。後継の市民団体はムーブメント連帯(旧連帯)。
なお1970年のよど号ハイジャック事件は共産主義者同盟赤軍派の起こした事件,1971年以降の山岳ベース事件やあさま山荘事件は
連合赤軍の起こした事件である。
日本赤軍の誕生
日本赤軍は,マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として国内で警察署の襲撃、銀行強盗、
多数の死傷者を出した連続企業爆破事件等の凶悪な犯罪を犯した過激派グループの一派が,「国際根拠地論」を打ち出して,
海外に革命の根拠地を求めて脱出した後,結成された国際テロ組織です。
昭和46年2月,偽装結婚した上でレバノン・ベイルートに出国した奥平剛士・重信房子は,同じくマルクス・レーニン主義に
立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ,その支援を取り付け,中東での活動を始めた。
テルアビブ・ロッド空港事件
中東に活動基盤を形成した日本赤軍は,昭和47年5月,イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港で,奥平剛士・安田安之・
岡本公三の3人が,自動小銃を乱射,手榴弾数発を投てきし,24人を死亡させ,76人に重軽傷を負わすテロ事件を起こした。
国際テロ組織「日本赤軍」
日本赤軍は,昭和49年以降52年までの間,PFLPとの共闘によりテロ活動を活発化させる傍ら,49年7月にパリ・オルリー空港において
偽造旅券を使用したメンバーが逮捕された事を皮切りに,多数の関係者が身柄を拘束された。
さらに,49年にはこれら拘束されたメンバーの釈放を求めて、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠した。
その後,世界各地でメンバーが相次いで検挙された事から,日本赤軍は,在監・拘留中のメンバーの奪還を目的に,
50年8月にマレーシア・クアラルンプール所在の米国大使館等を占拠(「クアラルンプール事件」)し,
さらに,52年9月にはパリ発東京行きの日航機をハイジャック(「ダッカ事件」)した。
我が国政府は,犯人側と数度の交渉を試みたが,人命尊重の見地から,超法規的措置により両事件で合計11人の在監・拘留中の
日本赤軍メンバー等の釈放を余儀なくされた。
その後,57年6月のイスラエル軍によるレバノン侵攻を受け,本拠地ベイルートを撤退した日本赤軍は,60年5月,イスラエルと
PFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換により釈放された岡本公三を迎え,61年以降,再びテロ活動を再開させ、
ジャカルタ・ローマ・ナポリと相次いでテロ事件を引き起こした。
壊滅
1980年代後半から1990年代後半にかけて,潜伏し地下活動を続けていた丸岡修や和光晴生などの中心メンバーが
相次いで逮捕され,組織は完全に壊滅状態に追い込まれた。1987年11月:東京都内で潜伏していた丸岡修が逮捕された。
1995年3月:ルーマニアに潜伏中の浴田由紀子が発見され,国外退去処分となり逮捕された。
日系ペルー人を装いペルーの偽造旅券を所持していた。
1996年6月:ペルーに潜伏中の吉村和江が発見され、国外退去処分となり逮捕された。
1996年9月:ネパールに潜伏中の城崎勉が発見され拘束された。
1997年2月:レバノンに潜伏中の和光晴生・足立正生・山本万里子・戸平和夫・岡本公三が発見され拘束された。
戸平が所持していたのは北朝鮮とよど号グループによって拉致されたとされる石岡亨名義の偽造旅券であった。
岡本を除く4人は日本へと送還された。1997年11月:ボリビアに潜伏中の西川純が発見され逮捕された。
2000年11月には「最高指導者」の重信房子も,密かに帰国しており,潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で
大阪府警警備部公安三課によって逮捕された。
その際に,押収された資料により1991年から日本での武力革命を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を
担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立していたこと,また,それを足がかりとして社会民主党(旧日本社会党)との
連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。
「希望の21世紀」は同事件に関連し警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが,日本赤軍との関係を否定している。
社会民主党区議自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが,
何も知らなかったが事実関係を調査するとして関係があったことを否定した。
最高幹部重信房子の逮捕
昭和46年2月に奥平剛士・重信房子が渡航して以来のレバノンという根拠地を失った日本赤軍は,
地理的にも文化的にも日本に近いアジア地域を国内における組織固めや国際戦線形成のための新たな戦略上の拠点と位置付けた。
こうした中,警察は,平成12年11月に国内に潜伏していた日本赤軍最高幹部重信房子を大阪で逮捕した。
重信房子の国内潜伏の目的の一つが,日本赤軍の拠点を日本に移すための準備作業であった事は間違いありません。
また,重信房子の逮捕に伴い押収した資料を分析した結果,日本赤軍は,3年8月にマルクス・レーニン主義による日本革命及び
世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明し,その党内には,軍事機関を設けるなど引き続き軍事路線を
堅持しており,その主張も日本赤軍と同一である事が分かった。
日本赤軍の解散宣言
平成13年4月,重信房子は獄中から日本赤軍の解散を宣言する文書を公表したが,革命の為の武装闘争を完全に否定しておらず,
さらに,逃亡中の7人のメンバーに関しても,何ら言及しなかった。
警察の対応
現在,日本赤軍は,最高幹部重信房子の逮捕に伴い,組織の建て直しと新たな活動拠点の構築を最大の関心事として
取り組んでいるとみられ,テロ活動を再開させる可能性は低下していると思われる。
しかし一方で,テロ組織としての性格を依然として堅持しており,その危険性に変わりはなく,警察は,逃亡中のメンバーの
早期発見・逮捕,活動実態の把握に努めている。
欧州における日本人拉致への関与
平成14年3月,赤木志郎の妻・恵美子の公判で,よど号犯人の元妻が,「北朝鮮の金日成(キム・イルソン)から
『代を継いだ革命を実施せよ』との教示を受けたリーダーの田宮高麿の指示で,昭和57年,ロンドン留学中の有本恵子さんに
声を掛けて騙し,デンマークのコペンハーゲンで朝鮮労働党・キムユーチョル及び魚本(安部)公博に引き合わせ,
北朝鮮に連れ出した。と証言をした事から,よど号グループが朝鮮労働党の指導の下,金日成主義に基づいた日本革命を目指して,
日本人拉致に深く関与していた事が明らかになった。
他方,昭和55年5月ころ,マドリッドから日本人男性2人が失踪した事案に関しても,北朝鮮は拉致を認めている。
平成14年9月,警察は有本恵子さんに対する結婚目的誘拐の容疑で,魚本公博の逮捕状を取得し,国際手配を行っている。
日本赤軍最高幹部の重信房子,出所
重信房子が20年の刑期を終え,警察庁長官の定例会見で,長官は日本赤軍のテロ組織としての危険性を,あらためて指摘した。
解散を表明しているが,解散は形だけに過ぎず,テロ組織としての危険性がなくなったとは到底,思えない。
日本赤軍と辻本清美の隠された正体とは
辻元清美の内縁の夫である北川明は、第三書館という出版社の社長で北川は昭和50年、スウェーデンから強制送還され、
旅券法違反で逮捕された日本赤軍のヨーロッパ担当兵。西ドイツの日本人商社員誘拐・身代金奪取作戦に参加予定だったのが
未遂に終わり,公安調査庁がずっと動向を調査してきた要注意人物。
辻元の選挙区は大阪10区(高槻・島本)で、氏の地盤の高槻市はあの赤軍の重信房子が潜伏,逮捕された場所であり
周辺に日本赤軍の関係者・支援者が多い土地である。辻元の選対本部には、元過激派のメンバーが現在でも多数所属。
(辻本は早大在学中に極左団体と関係していた。)重信房子支援者が勤務していた高槻市の光愛病院の創設者は、
日本赤軍の前身である共産主義同盟 (ブンド) 赤軍派の元メンバー。光愛病院は,日本赤軍支援グループの拠点,巣窟だった。
また辻元の内縁の夫、北川が経営する「第三書館」という出版社はマリファナや殺人,テロに関する詳しい書籍など,
著しく反社会的な著作を多数出版。辻元の著作5点は「第三書館」から刊行。
また、辻元が主催していた頃の「ピースボート」船上では当局の目が届かないのをいい事に参加者間(漫画家の石坂啓ら)で
公然とマリファナが吸引されていた。
「ピースボート」は日本赤軍が国際的に作ろうとしている支援組織「ADEF(反戦民主戦線)」の表側の組織 。
北川は日本赤軍が移動する際、ピースボートに紛れ込んでいたという。